このページでは、動画の中で使っている専門用語を解説しています。
動画を見たけど専門用語がわからない!という方は、ぜひこのページの解説も一緒に読んで動画を楽しんでみてくださいね。
真珠湾奇襲攻撃
1941年12月8日に、日本海軍がアメリカ太平洋艦隊の本拠地であるハワイの真珠湾を奇襲攻撃した出来事のこと。
この奇襲攻撃をもって、太平洋戦争がはじまりました。
日本海軍はこの攻撃で、航空機による攻撃という、まったく新しい戦法を使いました。
それまで、航空機による攻撃では戦艦に決定的なダメージを与えられないというのが常識でした。
ところが、この攻撃で日本海軍はアメリカ戦艦8隻を撃破して大きな戦果をあげ、その常識をくつがえしたのです。
この事実は世界の海軍関係者に大きな衝撃をあたえ、各国海軍が戦略・戦術を根本的に見直すきっかけとなったほどです。
ただ、この攻撃は大成功に終わったものの、完璧な結果だったとはいえません。
なぜなら、肝心の空母をつぶすことができなかったからです。
また、いきなりの不意打ちを受けたアメリカ国民の怒りは激しく、いまでもアメリカでは911同時多発テロ事件とならぶ最悪の出来事として記憶されています。
戦艦
戦艦とは、大きな大砲と分厚い装甲をもった大型の軍艦のこと。
太平洋戦争がはじまったころ、世界各国の軍事力をはかる基準として「保有している戦艦の数」がたいへん重要視されていました。
その理由は、太平洋戦争がはじまるまで海の上の戦いの勝敗を決めてきたのは戦艦だったからです。
日露戦争における日本海海戦、第一次世界大戦におけるユトランド沖海戦など、大国同士の海戦ではつねに戦艦が活躍してきました。
そのため、世界の大国はつねに戦艦の数をきそって激しい建艦競争をくりひろげてきました。
ですが、戦艦を1つ作るために必要となる費用は莫大なもので、各国の国家財政を圧迫していたのです。
そこで、各国の間で結ばれたのがワシントン海軍軍縮条約でした。
この条約は、各国の戦艦の保有数を条約で決め、その上限を超える戦艦は作ってはいけないと定めたものです。
この条約が結ばれたために戦艦の建艦競争はひとまず終わりを迎えますが、その代わりになる兵器を各国海軍は模索することになります。
そんなときに生まれたのが「空母」という軍艦でした。
空母
空母とは、多数の飛行機を積み、さらにその飛行機を飛ばすことができる軍艦のことです。
大型の空母では搭載できる飛行機の数は80機~90機にもおよび、まさに海上の航空基地として使うことができる軍艦です。
空母はそれまでの軍艦とは考え方が全く違います。
それまでの軍艦は、大砲や魚雷を積み、分厚い装甲を取り付け、船そのものの戦闘力を高めるという考え方でつくられていました。
ところが空母は、空母自体に強力な武装はほとんどなく、装甲も薄く攻撃に弱かったのです。
戦艦の大砲が直撃すれば、ひとたまりもなく沈没してしまうほど貧弱です。
ですが、空母には多数の飛行機が積んであって、その飛行機に魚雷や爆弾をのせて飛ばすことができるのです。
これが何を意味するのか。
つまるところ、飛行機が行って帰ってこられる範囲が、そのまま空母の攻撃範囲になるということです。
飛行機は大砲の弾が届く範囲よりも、ずっと遠くまで飛ぶことができます。
すなわち、相手が大砲や魚雷しか持たない戦艦や巡洋艦であれば、相手の攻撃が届かないところから一方的に攻撃できることになります。
このアドバンテージは圧倒的で、それまで海の王者だった戦艦たちを、一瞬にして時代遅れの無用の長物としてしまいました。
そのため、世界の海軍関係者は空母の登場によって戦略・戦術を根底から見直す必要にせまられたのです。
大艦巨砲主義
大艦巨砲主義とは、海戦において大きな大砲と分厚い装甲をそなえた戦艦こそが勝敗を決するという考え方です。
海の王者が戦艦だったころ、この考え方は世界各国の海軍では常識でした。
しかし空母の登場によって、大艦巨砲主義は時代遅れとなり、世界の海軍関係者は考え方を変えることをせまられることになります。
航空主兵論
航空主兵論とは、飛行機による攻撃が海戦の勝敗を決するという考え方です。
太平洋戦争が始まったころ、日本海軍内部では、それまで主流だった大艦巨砲主義と航空主兵論のどちらが正しいのか大きな議論と対立を生んでいました。
結局のところ、日本海軍は真珠湾奇襲攻撃において飛行機をつかってアメリカ戦艦8隻を撃破し、飛行機は戦艦に勝てるということを証明します。
しかし日本海軍のなかには古い考え方を変えようとしない軍人も多く、そのせいで日本海軍の戦略・戦術も古いままになってしまっていました。
射程距離
大砲の弾がとどく距離のこと。
たとえば、戦艦・大和の46センチ主砲の射程距離は42キロメートルで、これは42キロメートル先まで砲弾を飛ばせるという意味です。
艦攻 / 艦爆
艦攻と艦爆は、空母に搭載されている飛行機の種類のことです。
おもに爆弾を積んで敵を攻撃する飛行機のことを艦上爆撃機といい、これを略して「艦爆」といいます。
そして、おもに魚雷を積んで敵を攻撃する飛行機のことを艦上攻撃機といい、これを略して「艦攻」といいます。
ちなみに有名なゼロ戦は艦上戦闘機という種類の飛行機で、これを略して「艦戦」といいます。
また、空母に搭載されている飛行機を総称して「艦載機」とよぶこともあります。
連合艦隊
連合艦隊とは、日本海軍で運用されていた艦隊の名前です。
日本海軍には第1艦隊、第2艦隊、第3艦隊といったように、多数の艦隊が存在していました。
こうした艦隊が複数あつまってできるのが連合艦隊です。
もともと連合艦隊は戦争中など、有事の際に編成される臨時のものでした。
ですが、時代がくだるにつれて連合艦隊は常設されるようになり、その司令官である「連合艦隊司令長官」は日本海軍のなかでも最重要ポストのひとつとなっていきました。
有名な連合艦隊司令長官には、日露戦争で活躍した東郷平八郎元帥や、太平洋戦争で活躍した山本五十六元帥などがあげられます。
軍令部
軍令部とは、日本海軍の作戦立案と指揮を統括していた組織のことです。
軍令部は天皇直属の組織であり、大きな権限をもった組織でした。
海軍のなかでももっとも上層に位置する組織で、軍令部のトップである「軍令部総長」は海軍内部でも最も力のあるポストだと言っていいでしょう。
軍令部は、設立されたころは海軍を統括する中央官庁であった「海軍省」の管轄下にあったのですが、天皇直属の組織であったためにその力関係は海軍省よりも強かったといっていいでしょう。
事実として、1893年に軍令部は海軍省から独立し、その後一貫して海軍を統括する組織として位置づけられていました。
さきほど解説した連合艦隊は、いわば作戦を実行する組織であり、軍令部はその作戦をつくる組織であったといえます。
このような関係性から、本当は軍令部と連合艦隊は意思統一できていなければいけないのですが、実際は軍令部と連合艦隊の考えは違っていて、そのことが日本海軍に悪い影響を与えていたことは否定できません。