歴史の新事実か?兵5000が1500にまで減った大坂の陣の激戦のようす

こんにちは、ゲンゲンです。
最近僕は、マインクラフトでお城を作るライブ配信をしています。

ライブ配信をすると、視聴者の方とチャットを通じてリアルタイムにコミュニケーションを取れるので、いつも楽しく配信させていただいています。
僕のチャンネルは内容が内容なだけに歴史好きな方が多く、チャットの話題も歴史に関した話になることが多いのですが、今日はそんな会話の中でとても興味深い話を聞きました。

その話をしていたのは視聴者のFさんでした。
なんでも、Fさんのご先祖様は九州の雄・島津家や徳川四天王の一角である井伊家に仕えた家柄であるとかで、そのご先祖様が残した書物がおばあさんの家にあったそうなのです。

そして、その内容というのが朝鮮出兵や大坂夏の陣の戦場での記録で、その時の様子がリアルに、詳細に語られているのです。
最近、この書物を求めて研究者がFさんのところに来たとかで、ひょっとすると歴史学者の間でもこの書物の噂が広がっているのかもしれません。それくらい、内容が克明で興味深い内容なのです。

ところで、歴史というのはよく書き換わっているのはご存知でしょうか。
それはなぜかというと、歴史学者が日本中に散らばっている古文書を全て研究し尽くしているわけではないからです。

たとえば、古い家の蔵やお寺に眠っている古文書などは公開されているものではありませんから、存在すら知られていないことがほとんどです。
ところが、何かの拍子にこうした古い家の蔵やお寺から古文書が発見されて、いままで知られていなかった事が明らかになり、定説がくつがえされたり、新たな歴史的事実が明らかになるということはよくあるのです。

ひょっとすると、Fさんのおばあさんの家にあったという書物はそうした書物なのかもしれない。そんなことを思って大変興奮しました。

ということで、せっかく聞いた話も書き留めておかないと忘れてしまうので、Fさんからお聞きした内容を記事としてまとめておこうと思います。

なお、この記事中ではFさんのご先祖様を「ご先祖様」とお呼びさせていただいて、話をすすめていくこととします。

ご先祖様は朝鮮出兵で活躍した島津義弘の家臣だった

Fさんのご先祖様は九州の雄・島津義弘の配下にあった武将で、豊臣秀吉による朝鮮出兵にも参加して海を渡って戦っていたそうです。

朝鮮出兵は、最初こそ日本軍が破竹の進撃を続けたものの、やがて兵站線が伸び切り、そこに明(ミン:現在の中国)が朝鮮の援軍として参戦すると、明の大軍に押されて日本軍は苦戦を強いられるようになりました。

日本軍きっての武将だった島津義弘は明軍から「鬼」と恐れられたほどの活躍をするのですが、それでもやはり明の圧倒的な戦力の前に苦戦を強いられていたのです。

そんなときに活躍したのがご先祖様でした。
ご先祖様は島津義弘の軍が撤退するときに、殿軍を務められたのです。

殿は、追撃してくる敵を足止めして、撤退する味方を守るという大変重要な任務です。
勢いづいて追撃してくる敵を足止めするわけですから、大変危険で、死を覚悟しなければならない任務でもありました。

ご先祖様は、このような状況で追撃してくる敵軍に対して100人の殿軍で果敢に立ち向かい、一人で敵中に飛び込んで鉄砲で撃たれても倒れず、最期まで殿の大役を果たしきって討ち死にされたそうです。
そして、ご先祖様が討ち死にしてしまうと、残りの殿軍は撤退したということで、おそらくこの話はそのときに生き残った殿軍の一人が伝えたものなのでしょう。

ちなみにこのとき、ご先祖様はなんと初陣で、毛利秀元と一緒に援軍として加藤清正を助けたという話もあり、初陣でそんなことができるとは、まったく感嘆するほかありません。

平和な令和の世を生きる僕たちには、想像もつかないほど勇敢な方だったのだと思いました。
ご先祖様はこのときに討ち死にされてしまったのですが、このご先祖様の息子が大坂の陣で真田丸を攻めたという話もされていました。

ご先祖様の息子は大坂夏の陣で真田信繁や毛利勝永と戦った

Fさんの話は朝鮮出兵での殿軍のエピソードだけではなく、ご先祖様の息子の話もされていました。

ご先祖様の息子は井伊直孝の配下として大坂冬の陣の最前線で戦い、井伊家の旗を堂々と掲げて、あの有名な真田丸攻めにも参加したとか。

そして、ご先祖様の息子は、翌年の大坂夏の陣でももちろん参戦しています。

大坂夏の陣では、毛利勝永隊を撃破して豊臣秀頼を追い詰めた

大坂夏の陣といえば、徳川家康がいよいよ豊臣家を追い詰め、堀を埋められた大坂城に対して最期の総攻撃をかけたことで知られています。
しかしながら追い詰められた豊臣方も後がなく、決死の抵抗をしたため、徳川方の余裕の勝利というわけにはいかず、非常に多くの損害を出した戦いでもありました。

とくに豊臣方の武将・真田信繁が率いる部隊が徳川家康の本陣へと突撃し、一時はあわや家康討ち死にかというところまで追い詰めたことはあまりにも有名です。

ご先祖様の息子が活躍したのは、まさにこの真田隊が家康の本陣に突撃をかけようとしているときでした。

ご先祖様の息子は兵5000人を率い、豊臣方の真田信繁と毛利勝永の部隊と対峙したのです。

徳川家康は引くように指示したそうですが、ご先祖様の息子はこれを無視して正面突撃し、毛利勝永隊を打ち破りました。
これに関して、本多正信は激怒していたということですが、おそらく家康の命令を無視して突撃したことに怒ったのでしょう。

そしてこのあと、徳川方の松平隊とともに大坂城内へと突入し、城兵をバッタバッタとなぎ倒していったというのです。
途中、豊臣方の長宗我部盛親の反撃にもあったようですが、松平隊が到着するとそれも蹴散らして豊臣秀頼と淀殿が籠もる蔵を包囲、とうとう豊臣家を追い詰めました。

最期を悟った豊臣秀頼と淀殿は、蔵の中にあった火薬に火を点けて自害。
火薬は大爆発を起こして、蔵もろとも豊臣秀頼と淀殿を跡形もなく吹き飛ばしました。

ご先祖様の息子の部隊も、このときの大爆発に巻き込まれていくらか兵が減ってしまったということですから、凄まじい爆発だったのだということが伺いしれます。

豊臣秀頼が火薬に火を点けて自害したという話は歴史小説などでよく登場する描写ですが、豊臣秀頼の首があがっていないことからも、これは本当なのだと考えていました。
ご先祖様の息子が残した話からも、このことは裏付けられるということです。

5000人の兵が1500人にまで減った激戦だった

こうして、戦国の英傑・豊臣秀吉が一代で築いた豊臣家は大坂城とともに滅びました。
しかし、勝者となった徳川方の払った犠牲も多く、徳川方にも多数の死傷者が出たことで知られています。

ご先祖様は5000人の兵を率いて戦いに臨んだわけですが、戦いが終わってみると兵が1500人になっていたというのですから、凄まじい激戦の様子がこの数字からも見て取れます。
ふつう、軍隊というのは兵力の3割を喪失すると「壊滅状態」といわれますから、5000人が1500人になったというのは「壊滅状態」をはるかに上回る被害状況だと言えるでしょう。

大阪夏の陣後、ご先祖様は家康に隠れてこっそり明石全登や旧豊臣家臣を召し抱えたという話も聞けました。
ご先祖様の息子はその後、島原の乱でも活躍したそうで、伊達隊や後藤隊をやっつけたそうです。

このような話は、いまだかつてどんな本にも書いていなかったことです。
まさかマインクラフトのライブ配信中にこんな歴史の新事実を聞けるとは思っていなかったので大変興奮しました。

このご先祖様が残した書物を研究者が見に来たという話ですが、今後どのような研究成果が発表されるのか楽しみです。
そして、面白いお話を聞かせてくださったFさん、本当にありがとうございます!