天皇陛下が生前退位されるということで注目が集まっていた新元号ですが、きょうのお昼前についに発表され、「令和」に決まったということで日本中がこの話題で盛り上がっていますね。
また、これまで元号の出典は漢籍というのが通例でしたが、「令和」では万葉集からの出典ということで、はじめて漢籍以外からの出典となったということも話題になっています。
そして、「令和」に使われている文字ですが、「令」の字ははじめて元号に使われるもので、専門家もこの字がくるのは予想外だったとお話されていました。
しかし一方で「和」の字はこれまでの元号で何度も使われており、平成の前の元号が「昭和」だったことは皆さんも御存知のとおりです。
では、この「和」が使われた元号はいくつあって、どんな元号があったのでしょうか。
そして、それらの元号が使われた時代はどんな時代だったのでしょうか。
過去に「和」が使われた元号一覧
最初の「和」は飛鳥時代の708年に制定された「和銅」です。
以来、時代を超えて全部で19の「和」が使われた元号が使われてきました。
- 和銅… 708年 から8年間
- 承和… 824年 から15年間
- 仁和… 885年 から19年間
- 応和… 961年 から11年間
- 安和… 968年 から3年間
- 寛和… 985年 から3年間
- 長和…1013年 から6年間
- 康和…1099年 から6年間
- 養和…1181年 から2年間
- 正和…1312年 から6年間
- 弘和…1381年 から4年間
- 貞和…1345年 から6年間
- 文和…1352年 から5年間
- 永和…1375年 から5年間
- 元和…1615年 から10年間
- 天和…1681年 から4年間
- 享和…1801年 から4年間
- 昭和…1926年 から64年間
では、これらの元号が使われた時代はどんな時代だったのでしょうか。
以下の記事では、その一部をご紹介いたします。
「和銅」銅がみつかったことがきっかけ
「和銅」の元号のが定められたのは飛鳥時代の708年のこと。
このころ、武蔵国(現在の東京都と埼玉県)から和銅が献上されたことにちなみます。
このころの日本は、大化の改新によって、中国から先進的な文化や技術、制度などを積極的に取り入れ、国そのものの大改造に取り組んでいました。
大宝律令とよばれる、初めての本格的な法律を制定して統治機構を作り変え、中国の都・長安をモデルにした都をつくるなど、国のあり方が大きく変わっていた時代です。
そんな時代ですから、日本に貨幣というものが本格的に導入されたのもこのころ。
日本では中国から銅銭を輸入し、それを流通させていました。
同時にこのころ、日本では国産の銅銭をつくることも計画されており、のちに「和同開珎」として流通することになります。
武蔵国で銅が見つかったのはそんなときだったのです。
銅は、当時の日本では貴重な鉱物資源であり、これが武蔵国でみつかったことを吉祥として改元したわけですね。
和銅元年にはさっそく、この銅をつかった貨幣「和同開珎」が鋳造されるようになりました。
埼玉県秩父市には、今もこのときの鉱山遺跡が残されており、「和銅採掘遺跡跡」として知られています。
「弘和」日本に天皇が2人、元号も2つあった時代
「弘和」の元号が使われたのは、1381年のこと。
この時代は南北朝時代と呼ばれる時代で、日本に天皇が2人いました。
では、なぜ天皇が2人いたのでしょうか。
話は「弘和」の時代から約40年さかのぼります。
このころ活躍していたのは室町幕府の初代将軍であった足利尊氏。
尊氏は当時天皇だった後醍醐天皇を京都から追い出し、新しい天皇を擁立しました。
ところが、京都から追い出された後醍醐天皇は退位せず、奈良の吉野で新たに朝廷を作ったのです。
これを、京都の「北朝」に対して「南朝」と呼び、これ以来2人の天皇がいた時代を南北朝時代というのです。
天皇が2人いるわけですから、当然元号も北朝と南朝あわせて2つあるわけで、「弘和」は南朝側によって作られた元号です。
ちなみに、このとき京都の北朝側は「永徳」という元号を使っていました。
最終的には南朝は滅び、北朝側が残るわけですが、後醍醐天皇が足利尊氏によって無理やり追い出されたことを考えると、南朝こそが正統であるという意見もあります。
「元和」戦国時代の終わりを告げる元号
「元和」の元号が定められたのは1615年のこと。「げんな」と読みます。
ちょうどこの年の5月に、徳川家康が豊臣家を滅ぼして戦国時代を完全に終わらせました。
「元和」の元号が定められる前の日本は、戦争と下剋上が荒れ狂う戦国時代でした。
織田信長と豊臣秀吉の活躍によって、戦国時代は急速に終焉へと向かいつつありましたが、元和の元号が定められた1615年、徳川家康がついに戦争の時代を終わらせたのです。
戦国時代を終わらせた徳川家康は、朝廷に願い出て元号を「元和」と改め、「元和偃武」を宣言しました。
偃武とは、「武器を偃(ふ)せて蔵にしまう」こと。
長く続いた戦乱の世の終焉を宣言するとともに、泰平の世を築いてゆく願いと意志が込められています。
家康はこの翌年の元和2年に亡くなりましたが、彼の死後、約260年ものあいだ日本には平和な時代が訪れたのです。
「元和偃武」にこめた家康の想いは、みごとに実現されたと言ってよいでしょう。
「昭和」戦争と平和の激動の時代。
激動の20世紀。日本の20世紀は、まさに「昭和」の時代でした。
昭和がはじまったのは1926年のこと。
第一次世界大戦が終結し、世界はつかの間の平和が訪れていました。
しかし間もなく、ドイツではヒットラーが政権を握り、世界はふたたび戦争の時代へと向かっていきました。
日本もこのころ中国で泥沼の戦争へと突入しており、1941年にはアメリカとの戦争へと突入していきます。
結果として、200万人以上の犠牲者を出して日本は戦争に敗れました。
広島と長崎には人類初となる核兵器による攻撃が行われ、東京や大阪をはじめとする日本中の町は連日連夜空襲に晒され、灰燼に帰しました。
戦争がおわったとき、日本に残されたのは焼け野原となった町と、飢えに苦しむ国民でした。
軍隊は解散することとなり、日本には平和憲法が導入されました。
以来、日本では今日にいたるまで一度も戦争をしていません。
そして、戦争のダメージから立ち直る日本のエネルギーは凄まじいものでした。
戦争が終わってからわずか19年後の1964年には新幹線が開通し、東京でオリンピックが開催されました。
戦後に勃興した企業はめざましい成長を遂げ、日本は世界第2位の経済大国といわれるまで復興したのです。
今生きている私たちは、まさにこの時代につくられた日本の上に暮らしています。
平和で豊かな日本があるのも、この時代があったからこそだと言えるでしょう。